「存在しなかった安全」ブダペスト覚書署名から24年
ウクルインフォルムは、この機能しなかった悲惨な文書に関するいくつかの事実を喚起する。なお、ブダペスト覚書の一つの肯定的な点は、19世紀のドイツ帝国首相、オットー・フォン・ビスマルクの格言「ロシアと結ぶ合意には、そこに書かれていることに価値がない」に現代的なイメージを与えた点であろう。
・1994年12月5日、ブダペストにおいて、ウクライナ、アメリカ、ロシア、イギリスが安全の保証に関する覚書、いわゆる「ブダペスト覚書」に署名した。同時に、フランスと中国が、声明を出し、同様の保証を与えると発表したが、この2国は覚書に署名はしなかった。
・ブダペスト覚書は、ウクライナ国内法「1968年7月1日付核兵器不拡散条約へのウクライナの加盟」が採択されたことに関連して、署名されたものである。この法律には、「本法律は、核兵器保有国からウクライナに対し、関連の国際法的文書への署名を通じて形成される、安全の保証が与えられた後に発効する」と書かれている。
・このようにして、ブダペスト覚書署名国は、「ウクライナの独立、主権、現存国境を尊重する」こと、「ウクライナに対して、今後一切の武器を使用しない」こと、「ウクライナの政策に影響を及ぼすことを目的とした経済的圧力を控える」ことが義務づけられたのである。
・同覚書にのっとり、当時世界第3の核兵器保有国であったウクライナは、自発的に核兵器能力を放棄し、非核国家となった。ソ連邦崩壊時、ウクライナ領内には、大陸間弾道ミサイル、戦術核兵器、核兵器を搭載可能な戦略爆撃機、戦略核兵器があった。ウクライナが独立した直後から、アメリカとロシアは、当時のウクライナ政権幹部に対し、できるだけ早く核兵器を放棄するよう説得し始めていた。
・そして、1992年5月、ウクライナは、第一次戦略兵器削減条約(START Ⅰ)の項目実現に関するリスボン議定書に署名し、その後1994年12月にブダペスト覚書に署名したのである。
・ブダペスト覚書の署名国に対する法的拘束力の問題は、2003年9月、ロシアとウクライナの間でケルチ海峡にあるトゥズラ島を巡った対立が発生した際に、顕在化した。その後、当時のユシチェンコ大統領が覚書の見直しを提起したが、ブダペスト覚書に変わり、新たにウクライナの安全を保証する合意の作成に向けた国際会議は、ついに開催されなかった。
・これを利用したのがロシアである。2014年3月1日、プーチン大統領は、ウクライナ領におけるロシア軍の使用許可を同国連邦院から受け取ることになる。以降、クリミア占領、ドンバス戦争があり、ウクライナは、ブダペスト覚書はその署名国であるロシアにより違反されたとみなしている。さらに、ウクライナでは、同覚書のその他の署名国も自らの義務を守らなかったとして批判する者が少なくない。
追記:この文書が執筆されている最中に、ウクライナ外務省が、ブダペスト覚書署名国に対して、ロシアによるウクライナ艦船に対する攻撃を受けた「緊急協議」の開催を要請した。