日本最大の民間通信社「共同通信」は、約80年の歴史と巨大な読者層と世界40の都市に120人以上の特派員を置く支局を持つ。
2023年10月、共同通信は私たちの国の出来事への独自の視点を有すべく、キーウ支局を開設した。
根本裕子さんは、ウクライナで1年半活動してきた特派員だ。
彼女は来週、東京へ戻ることになっている。ウクルインフォルムは、出国前の根本裕子さんに日本の読者のためのウクライナでの活動の特徴につき質問したところ、1つの質問を除き、全ての質問に回答してもらえた。その1つの質問とは「ロシアの軍艦はどこへ向かうべきか?」というものだ。彼女は、ズミーニー島の出来事とウクライナの国境警備隊のことは知っていたが、その質問はわからなかったようだ。言うなれば、当時の状況の「塩味」の部分が「ロスト・イン・トランスレーション」になったのだろう(日本語編集注:ロシアの全面侵略開始初日に、ズミーニー島でウクライナ国境警備隊が「ロシアの軍艦よ、くたばれ」と言ったとされる話のこと。ロシア語では「くたばれ」の部分が移動動詞итиを用いた罵りのスラングであることから、そのスラングをほのめかしながら「どこへ向かうか?」という質問が可能だが、その言葉を日本語や英語に訳す場合は「くたばれ」のように意訳されるため、上述のような質問は意味が通じなくなる)。
しかし、根本さんは、ロシア侵略の理由、ウクライナとロシアの違い、ウクライナ人にとって「家」が重要である理由、私たちにとっての「自由」の感覚、あらゆることについて言い争うウクライナ人の習慣といった、多くのことを理解してくれていた。
聞き手:ナジーヤ・ユルチェンコ
写真:キリロ・チュボチン
2022年2月24日に、私の人生もまた変わった
根本さん、全面侵攻開始まで、あなたは貴通信社のモスクワ支局で働いていましたね。あなたにとっての戦争のはじまりはいつですか?
私は、キーウへは、最初は出張で2022年1月に来ました。当時、ロシアが多くの部隊をウクライナとの国境付近に集結させており、侵攻の可能性に関して多くの情報が出ていました。私は、情勢を評価して、ウクライナ国内の雰囲気について書かなくてはなりませんでした。
通りの人や軍事専門家にインタビューしました。その頃、キーウ近郊では、領土防衛の訓練が行われていて、私は、休日や悪天候の中でもその訓練に参加する民間人の多さに驚きました。
その時、キーウの人たちとの話していて、私は、そのようなひどい戦争はないだろう、もしかしたらウクライナ東部のどこかで情勢の激化はあるかもしれないが、全面侵攻ではないだろうと思っていました。軍事専門家もインタビュー時に私に向かって、ロシア軍の兵力は侵攻のためには不十分だと話していました。
あなたは、大戦争(編集注:全面侵略戦争のこと)の初日は、どこで迎えましたか?
(ロシアの)ロストフ州です。というのも、そこには、被占領下ドンバスから多くの難民が脱出していたからです。私は彼らにインタビューを行いました。彼らは私に、ウクライナ軍の侵攻が怖いとか、「ロシアだけが助けてくれるから」ロシアへ向かうとか話していました。
2022年2月24日、私の人生もまた変わりました。
私は今37歳ですし、大きな経験はありません。私にとって、これは最初の戦争ではなく、私はシリアで1週間近く仕事をしたことがあります。しかし、ウクライナでの戦争は、全く違うものです。私は、何をすべきかがすぐにはわかりませんでした。
当時のロシアの雰囲気はどうでしたか?
ロシア人は当時、心の中でパニックを感じていたと思います。彼らは、それを率直に述べることはありませんでしたが、しかし、私は、彼らはウクライナで起きていることを理解しようとしていたという印象を抱いていました。少なくとも、国営テレビを見ず、外国の情報源を見つけようとしていた、私と同世代のロシア人は。
しかし、ロシア政権はその後外国メディアへのアクセスを制限しており、彼らに残されたのは自分の意見とロシアのプロパガンダだけになりました。
あなたは、ロシア・ウクライナ戦争の原因を日本の読者のためにどのように説明しましたか?
日本の人たちが私の説明を理解したかどうかはわかりません。ロシアの行動が示していることは、ロシアがウクライナを独立国家として認めていないということだと思っています。ロシアには帝国主義的な考えが残っています。
ロシアには、反プーチン的見方を持つリベラルな人たちはいます。しかし、彼らでさえも、ウクライナのことを少なくとも「兄弟国家」である、ただし「弟」である、と考えているのです。
現在、和平協議について話す人がおり、日本にもそのような考えの人はいます。しかし、ウクライナ人にとっての平和が何を意味するかを考えたら、どうでしょう? というのも、これは侵攻、侵略であり、ウクライナ人はそれに対して自衛しているのです。この状況で、何が彼らにとっての平和となるのでしょうか?
あなたは、ウクライナでどれだけ戦争へ近付きましたか? 戦闘地域へと滞在しなければいけないことがありましたか?
2022年に私はハルキウやドネツィク州へ行き、軍人のインタビューをしました。ヘルソンにもロシアの占領解放後に行きました。
私は、戦場ジャーナリストではありませんが、当然ハルキウやヘルソンでは、キーウにいるよりも戦争を近くに感じました。
しかし、とはいえ、私は、1年半ずっとここ(キーウ)にいました。私は、ウクライナにいる全ての人が戦争の犠牲者だと思っています。
ウクライナでは、あなたの以前のロシアでの仕事の経験は、役立ちましたか? それとも邪魔になりましたか?
私は、役に立ったと思っています。率直に言うと、私は以前は、ウクライナとロシアの違いをはっきりと説明することができませんでした。でも、今はもう、両者は比較すらすべきでないのだということを、おそらくわかっています。
ロシアでの仕事の際、私は、ウクライナにおけるナチス主義者の存在についてたくさん聞きました。私は、それをあまり信じていませんでしたが、それでも「突如彼らがいたらどうしよう?」とは考えていました。私はウクライナで一年半働き、国中を周り、人々とたくさん話しましたが、1人もナチス主義者は見かけませんでした(笑)。
ウクライナとロシアは、全く異なる国です。私は、ウクライナ人には全く異なるメンタリティーがあり、異なる自由の感覚があると思っています。大半のウクライナ人がロシア語を理解するのは当然ですが、しかし、あなた方の考え方は全く異なります。
日本の読者向けにウクライナのニュースをどのように選んでいますか?
基本的に、私はあらゆることを書くようにしています。戦争についても、内政についても、社会生活についても。
私たちは、毎日ウクライナについて何かしら報じています。
今日のキーウへのミサイル攻撃は、あなたの通信社にとって「ニュース」ですか?(聞き手注:このインタビューは、ロシアがキーウに対して2弾の弾道ミサイルを発射した3月25日に行われた。)
私たちは、キーウへの攻撃は毎回書いています。しかし、ロシアが他の地域を攻撃して、犠牲者が出なかった時は、私たちはそれを常に報じているわけではありません。
戦争の2年間、日本においてウクライナ発のニュースで最も話題となったものは何ですか?
戦争1年目のブチャ、ハルキウ州とヘルソンの解放、ザポリッジャ原発の状況だと思います。
当時は、総じて日本人のウクライナへの注目がもっと大きく、皆がここでの出来事に関心を持っていました。
私たちの通信社は、ウクルインフォルム通信同様、ニュースを配信していますが、それを受信するのは主に紙のメディアです。私たちのところでは、各県に紙の新聞があり、各編集部が、あるニュースを印刷するか否かを独自に判断します。人々がこのテーマに興味を持っていたので、(新聞の)編集部が私たちのニュースを頻繁に掲載してくれていました。
それから、私たちにはオンラインサイトとツイッターアカウントもあり、人々は関心のあるニュースにコメントしています。
ウクライナの戦争に関するメディア空間には、「ウクライナの視点」しかありません。なぜなら、私たちにとってのもう一つの「視点」とは、嘘のロシアのプロパガンダであることが自明だからです。あなたは、自分のために、このような状況下における「2つの視点」に関して、報道基準の問題をどのように解決していますか?
私たちは、自分たちの目で見たものとウクライナ側が話していることを書くためにここにいます。
日本の上川陽子外相が1月初頭のキーウ訪問時に、空襲警報により、シェルターで記者会見を行わなければならなくなったことを、ウクライナのほぼ全ての報道機関が報じました。この細部の話は、日本の報道機関にとって、とりわけあなた方の通信社にとっても、重要なことでしたか?
私たちはそのことについて書きましたし、他の日本の報道機関も書いていました。それは重要な事実です。
私は、上川外相がシェルターに向かわなければならなくなったことを通じて、日本の人は戦争をより近くに感じたと思っています。
ウクライナでは、一人一人が自分の意見を持ち、それを率直に表明する
ウクライナ人についてのことで、あなたには何が一番日本の人に説明するのが難しいですか?
ウクライナ人とロシア人の違いですね。私は、そのことをずっと説明しようとしてきていますが、それでも、人によってはなかなか理解できないかもしれません。
私は、ウクライナについて多くのことを書いていますし、異なる見方を伝えたいと思っていますし、専門家や政治家だけでなく、多くの一般人とも話しています。
私が、ウクライナの東部と西部でインタビューを取った時、人々は若干異なる意見を持っていました。私は、大半の人がウクライナを支持していると思いますが、ロシアに対する姿勢には少し違いがあるとも思っています。
ここにいるほとんどの人が、率直に話をします。ロシアでは、それは難しいことです。私は、中東でも働きましたが、そこでも違いがあります。しかし、ウクライナでは、人々はオープンで、一人一人が自分の意見を持ち、それを率直に表明しています。これはとても気持ちの良いことです。
また、ウクライナ人はもっとよく笑います。もしかしたら、戦争があなた方を少し変えてしまったかもしれませんが、総じてここの人たちはフレンドリーです。
当然、ロシアにも色々な人がいますし、私にはロシアにも友人がいます。しかし、ここでは、私は外国人に対するより大きな支えを感じますし、ウクライナ人同士で互いに助け合う準備も感じています。
ここでは私は、ウクライナ人の政権を批判して、思ったことを真っ直ぐに述べるという習慣を知りました。
最初は、ウクライナで皆がソーシャルメディアで揉め合っているのを見るのは不思議に思いましたが、今では、ウクライナ人が批判し合っていても、驚かなくなりました(笑)。
戦争中の国での仕事は、あなたの心理状態にどのような影響をもたらしましたか?
多分、私はもう慣れました。昨日の夜、大きな爆発音が鳴り響いた時は、怖かったです(聞き手注:3月24日、防空システムがキーウ上空で敵のミサイルを10弾撃墜した)。しかし、多くのウクライナ人同様、私はキーウにいながら、守られている感じを覚えています。
あなたは、エネルギーを回復するための休暇が必要ですか?
おそらく、日本に戻ったら、私はすぐに積もり積もった疲れと、戦争状況にいたという事実を感じるでしょう。しかし、今は、そのことに慣れています。
当然、私にはここでも休日はありますが、それでもウクライナは今の私にとって仕事の場所です。そのため、休暇はおそらく必要になるでしょう。
記者として、そして、人として、自分の書いた記事の中で、どれが一番記憶に残っていますか?
私にとっては、記事はどれも大切です。でも、おそらく、2022年4月に取ったイルピンの女性のインタビューでしょうね。彼女は、イルピンから避難してきて、その後町に戻りましたが、彼女の夫は避難することを拒否し、亡くなりました。
彼女は、夫と、避難するかどうかで、激論をしたと話していました。彼は残ることにしたのですが、その後で彼にその悲劇が起きたのです。
その後、私は、彼にとって自分の家、自分の町、自分の大地が重要だということを理解しました。そして、それがウクライナ人にとってどれだけ多くのことを意味するのかも。なぜなら、避難を拒否して亡くなった人は、大勢いるのです。
最初は、私はそのことがわかっていませんでした。
あなたには、過去1年半で、何かしらの嫌な経験をしましたか?
ウクライナでは、自分に対する不愉快な態度を感じたことは、一度もありません。もしかしたら、私が日本人で、私たちの国の関係が良いからかもしれません。
でも、多分、それだけではないでしょうね。
仕事に関しては…、ここウクライナでは、あらゆる出来事が予想外で、記者会見も事前に発表されません。これは今だけですか、それともいつもこうなのですか?
今だけです。戦争のせいです。
でも、それが、特に公式記者会見がある時に、仕事を非常に複雑にします。それはいつもストレスです。
ウクライナの出来事はもはやウクライナ人だけ問題ではなく、世界中の人にとっての問題
ゼレンシキー大統領のインタビューを取ったり、彼に質問したりすることができましたか?
他のアジアの報道機関と一緒のインタビューの際に、私の上司が質問することができました。でも、単独インタビューはありません。
私たちは、あなた方の大統領が非常に忙しいことは理解していますが、それでも、機会があれば、私たちは喜んで彼と話すことでしょう。
ウクライナには、ハルキウで無料のカフェ「フミカフェ」を開いた75歳の土子文則さんが有名です。日本でも彼については知られていますか?
はい、私はハルキウへ行った時に、彼について書きました。私は、彼が行っていることに敬意を持っていますし、ハルキウ市民が彼のことを良く思っていることに驚きました。
もちろん、彼は日本人で、素晴らしい方ですが、私は、彼のことをウクライナにいる1人の人として書きました。
ウクライナの著名人の中で誰について日本の読者に向けて伝えましたか?
私は、作家のアンドレイ・クルコフ氏について、ウクライナ人の性格についてのインタビューを取りました。彼はロシア語で執筆しているので、私たちは言語についても話をしました。
それから、ミハイロ・ポドリャク氏(大統領府長官顧問)と、最近、タミラ・タシェヴァ氏(クリミア自治共和国ウクライナ大統領常駐代表)のインタビューも取りました。
私は、多くのウクライナ軍人や一般人と話しました。
私は、人について書くのが好きです。
ウクライナは、日本からウクライナへの一貫した多くの支援について、日本にとても感謝しています。私たちは、この感謝の気持ちをどうやって日本の人たちに伝えたら良いと思いますか?
私は、何か特別なことはしなくても良いと思っています。私たちは、感謝を感じています。
私たちのところでも、緊急事態は起こりますし、ウクライナの人々は、そのことを知っており、私たちのことを気にかけ、できる範囲で助けてくれています。
ウクライナでの仕事の後に、他の国で滞在することになったとしても、あなたは私たちのニュースをフォローしますか?
もちろんです! なぜなら、ウクライナの出来事は、もはやウクライナ人だけの問題ではなく、世界中の人にとっての問題なのですから。
ウクライナの何を寂しく感じると思いますか?
人と、青と黄色の色でしょうね。