最前線「ゼロ地点」の夜

最前線「ゼロ地点」の夜

ウクルインフォルム
ウクルインフォルムの記者は、最前線の迫撃砲兵の陣地でほぼ丸一日を過ごした。

敵が徒歩で30分もすれば辿り着ける場所にいると知っていると、最初はなかなか寝付けない。しかし、常に緊張していると、いずれにせよ体は疲れ果てる。「徒歩で30分」というのは、全く比喩表現ではない。前線のイヴァン・マゼーパ記念第54独立機械化旅団の迫撃砲班「オデーサ」のいるその地点を、私たちは訪れた。そこには、特別な機器を使わなくても、ロシアの陣地が見える地点がある。

執筆:オリハ・ズヴォナリョヴァ(ザポリッジャ)

写真:ドミトロー・スモリイェンコ

夜の前線

「気持ちの準備ができているかだって? どういうことか、わかっているのか? あるいは、少なくとも想像ぐらいはしているのか?」 軍人のオレフが歩きながら私たちに問いかける。

私たちと彼は初対面だ。前に一度だけ電話で話しただけである。話したと言っても、数分前に電話をかけ、自分たちが何者か、誰のところへ行くつもりなのかを伝え、待ち合わせの場所を決めただけの話だったが。

「私たちは今戦争へ向かっているのか?」同行の写真家のドミトローが聞く。

オレフは、「変な話だな。(数秒考えた後)『職場』へ向かっている、とでも言おうか」と答える。

戦争までは、彼は長距離トラック運転手だったという。ラトビアで働いていたところを、帰国した。前線へ行かずに、どこか遠くで座っているというのは恥だと思ったのだという。彼の仲間は、彼のことを「ジェド(爺)」というコードネームで呼ぶ。彼は、運転手だ。最近、破片が彼の手の指を2本切り落とした。敵が彼の自動車を狙ったためだ。彼は、怪我を癒し、部隊に戻った。私たちは彼の車で別の場所へ辿り着き、そこで別の班が私たちを次の場所へと連れて行ってくれた。

未舗装の荒れた道を1キロ進むごとに、闇が視界から全てを覆いつくし、軍用車の窓からは景色が徐々に見えなくなっていった。軍人たちは、暗くなり始める時間帯を「灰色」と呼ぶが、夜中にも夜明けにもまだ時間がある。この時間帯の前線の道は、極限体験だ。ナイトゴーグルがなければ、ここでは何もできない。ゆっくり走ってもいけない。なぜなら、敵の無人機が常に空から監視しており、「お客さん」も、実質そこで暮らしている人も、狩ってしまうからだ。どの瞬間にも「飛来」はあり得る。速度を抑えながらも急ぐ。ある地点では、向かい側からこちらへ走る自動車を見かけた。ほんの数メートルのところに、その車は現れた。前線のある方向から、突然、1回、2回、3回と明るい閃光が目に入る。

軍人は、「あそこにはオークがいる。おそらく、多連装ロケットシステムか榴弾砲がある」と説明する。

私たちが走っている間は、自動車のヘッドライトも、どんな照明も、月光すらも、無駄に点けることはしないと決めていた。最前線、あるいは、軍人たちが「ゼロ地点」と呼ぶ陣地へは、正に「灰色」の時間の内に行かなければならない。

こうして、私たちは、迫撃砲班「オデーサ」の職場へと到着した。

課題は歩兵を救うこと

自動車から自分の持ち物を急いで取り出す。出迎えた人々の顔が見えるのは、塹壕に入ってからだった。そこまでの道も、周りの景色も、見回すことができたのは、次の日の朝になってからだった。夜の完全な闇の中、地上に出たのは一度きり。トイレのためだった。

ドミトローという名の軍人(コードネーム「ホルティツャ」)が「紹介しよう。これは猫の『ドンバス』、彼が指揮官のイェホール、この真面目な男がセルヒー(注:コードネーム『シェドイ』)、照準担当のセルヒー(注:コードネーム『ナツィク』)。私たちはここで暮らしている」と述べる。

正直なところ、私たちがこの迫撃砲班のところを訪れたいと強く思っていたのは、ドミトロー(ホルティツャ)がここにいるからだった。彼は、考古学者であり、故郷のザポリッジャだけでなく、国外でも名の知られた人物だ。さらには、彼は、国立保護区「ホルティツャ」記念碑保護課の課長でもある。だから、彼のコードネームも「ホルティツャ」なのだ。

迫撃砲兵たちの地下「アパート」は、ずいぶん暖かく、ここには寝床もあれば、小さな台所もあるし、様々な軍用「品」を保管するための様々な隙間があり、それからとても沢山のネズミもいる。だから、陣地には猫の「ドンバス」も暮らしている。私たちは、ドミトローとはもう何か月も会えていなかったため、会うなりすぐに色々なことを話し始めた。他の軍人たちは、その間その日の朝始まったイスラエルでの戦争のことを議論していた。

時計ではまだ19時だった。私たちは、さっき調理したばかりのプロフを出され、コーヒーも入れてもらった。それから、「ホルティツャ」が、塹壕内で彼らがどのように活動しているのかを見せてくれ、イェホールがタバコを吸いに外に出た。居場所がばれることのないように、暗闇の中で話した。人の声だけが聞こえ、姿は全く見えないというのは、少し珍しい体験だった。

イェホールは、ドネツィク州ポクロウシク(旧クラスノアルミーシク)出身だ。23歳。彼は、戦争には2019年年末から参加している。活発な戦闘に加わったのは、マルインカだったという。

彼は、「本当なら私はもう動員解除になるはずなんだが、しかし、ここにいる。立ち去りたいという気持ちが起きなかったのだ。立ち去って何の意味がある? 戦争に一度向き合ってしまったのなら、……ければいけない……」と話し始める。

私は、「私たちが今いるここが、よく話に出てくる『ゼロ地点』?」と尋ねる。

すると彼は、「第一防衛線というものがある。歩兵がその後ろにいて、そのそばに対戦車ミサイル兵、迫撃砲兵、榴弾砲兵が立つ。それが全て第一防衛線だ。私の理解では、『ゼロ』とは、味方と敵の歩兵の間のグレーゾーンのことだ。だから、私たちがいるのは、第一防衛線だ」と話す。

大戦争の過去1年半で、イェホールは、仲間たちと多くのことを経験したという。24時間以上戦闘が続いたこともあったし、絶対に忘れようのないような状況もあった、その1つはまだ戦争の最初の頃に起きたことだと語る。当時はまだ、彼らの班は、80ミリ口径の迫撃砲2つでのみ「出張」へ向かったのだという。

「私たちは、4日間、ほぼ全然眠らずに耐え抜いた。200発ずつ砲弾を発射していた。ロシアの砲兵が忍び寄り、彼らの戦車が私たちの陣地の場所を把握した。活動していたある瞬間、私たちのところに、歩兵部隊が這い寄ってきて、彼ら全員の動きが止まった。その時、私たちと指揮官の中で何かしらスイッチが入り、私たちはシェルターに駆け込んだ。その数秒後に、私たちの迫撃砲の場所に砲弾が飛来した。何と言えば、どう言えば良いのかわからない。その時はすごいショックだった…! その後私たちは退避したのだが、言いようのない大きな喜びを感じた。戦争の始めが一番厳しかった。足から頭まで世界がひっくり返ったようだった。砲撃というのは、いつでも初めてかのような感覚だ。砲撃に慣れることはできない。ただし、戦闘には…、1年半経って慣れ始めた。ハルキウ州が解放された時、私たちは(ルハンシク州)リシチャンシク近郊にいたのだが、あれでかなり士気が上がったね」とイェホールは語る。

彼は、軍に入る前は炭鉱整備士だったという。彼は、「鉱夫の仕事」だったと述べる。彼の父も祖父も鉱夫だったという。将来、炭鉱に戻るかどうかは、わからないと述べる。

イェホールは、「『戦後』というのがいつ訪れるのか…。それがどういうものになるのか、戦争の終わりがどういう風になるのかは、想像さえ難しいよ。私は、紛争は凍結されると思っている、残念ながら」と述べる。

その時、「ホルティツャ」は、ウクルインフォルムの写真家のドミトローに迫撃砲関連の様々な「物」(火薬や迫撃砲弾など)を見せていた。男性たちは、120ミリ口径の迫撃砲を使っている。それは、固定式で、重く、かなり大きい。それで敵の歩兵を叩きのめす。彼らは、最初は倒した兵の数を数えていたが、途中でやめたと述べる。

塹壕では迫撃砲の攻撃からは身を守れない

イヴァン・マゼーパ記念第54独立機械化旅団は、陣地の維持に集中している。大半の兵士は、若く、反テロ作戦/統一部隊作戦での経験を持つ(編集注:「反テロ作戦」は2014年から2018年まで、統一部隊作戦は2018年から全面侵略戦争が始まるまでの期間、ウクライナが東部で展開していた作戦のこと)。

ホルティツャは、「砲兵隊長のコードネーム『フィズルク』は、迫撃砲班の2番手から始めた。彼は、8年間戦争の中にいる。彼の年齢は30歳と少しだ。彼の相棒の『ブリ』は23歳。私たちは航空偵察班と一緒に作業をしている。算段に役立つ様々な特殊プログラムがあるのだ」と述べる。

彼らの迫撃砲班「オデーサ」は、前方にいる歩兵を援護している。班の課題は、敵が私たちの歩兵の攻撃を準備している段階で敵の前進を止めることにある。隣には狙撃兵、対戦車ミサイル兵、偵察兵、様々な武器がある。迫撃砲の後ろには重火器がある。

ホルティツャは、「迫撃砲は、シンプルな武器だが、非常に効果的だ。もし砲手が上手なら、迫撃砲から隠れるのは非常に難しく、塹壕では助からない。砲弾は上から降り注ぎ、破片は様々な方角に飛び散る。戦争における損耗全体の内、80%が砲撃によるもので、その内の半分以上が迫撃砲によるものだ。誰が死ぬのか? 歩兵だ。そして、歩兵を殺すのは、基本的には迫撃砲兵だ」と説明する。

砲撃の方角を担当するコードネーム「ナツィク」(以前、国家警護隊(ナツフヴァルジヤ)に動員されたことがあるため)こと、セルヒーも、迫撃砲が歩兵を倒すための武器であるとの意見に同意する。彼は、自分の仕事に難しいところは何もないと述べる。実践により私を納得させようと、彼は照準装置を持ってきて、簡単な「実験」をしてみせた。私は、照準装置を30分で使いこなせるようにはならなかったが、彼らは、実践では数回試せば十分で、あとは勉強して上達を望みさえすれば良いと述べる。

その頃、塹壕内では、ネズミたちの活発な夜の生活が始まっていた。すると、猫も活動し出す。猫は素早く獲物を捕まえ、持ってきて見せびらかした。「廊下」で、カチッという音がした。ねずみ捕りが作動したのだ。彼らは、もうそれには誰も注意を向けないと述べる。なぜなら、戦争中にははるかに恐ろしい音が存在するからだ、と。

飛来音が聞こえるということは、生きている証

ホルティツャは、戦争までは、有名な水中考古学者だった。彼のおかげで、多くの水中探査が行われてきた。例えば、コサック時代の珍しい船や、「ブリガンティン」や、他にも多くの物が発掘された。軍事では、2022年までは彼らは何もできなかった。本人曰く、「銃も一度も扱ったことがないが、学んでみたいという粗野な願望はあった」という。

「迫撃砲を扱って仕事をするのは、どれくらい大変?」と、私は尋ねる。

彼は、「説明したり語ったりするのは簡単だ。しかし、サッカーと同じで、上手にプレイするには経験が必要なのだ。速やかに行動しなければならない。今、私は班の中で2番手で、砲弾を担当している。私の課題は、砲弾を集めて、その発射の準備をし、それがいくつあり、どこにあるかを把握しておくことだ。私は、『シェドイ』と一緒にそれを担当している」と述べる。

ホルティツャの身体には特徴がある。彼の健康で完全な腕は1本なのだ。

私は、気をつけながらも、「あなたがここでしていることは、スピードも必要なのでしょう。実質1本の腕で、習得するのはどれだけ大変だった?」と、個人的なことを尋ねる。

すると彼は、静かに「私がここでしていることは、水に飛び込むよりも難しくはない。私は、ほぼ生まれた時から1本の腕で生きている。私は慣れているし、2本の腕で活動することの方が、どういうことなのかわからない」と答える。

すると、イェホールが話に加わり、「私たちがまだドミトロー(ホルティツャ)と知り合う前の時に、こう思ったんだ。『腕1本の兵士と班を組むと、どうなってしまうんだ』と。でも、ドミトローは、皆のために働いてきた。私は彼の仕事ぶりを見てきており、彼のことを障害者だとは絶対に呼べない」と述べる。

ホルティツャは、「難しいことはいくつかある。例えば、照準だ。あれには、同時に両手を使わなければならない時があり、それは私には難しい。しかし、若者たちもいるのだ。ナツィクは、思うに、自分一人で何でもできる。彼は素晴らしい砲手だと思うよ」と続ける。

前線での仕事が続く中でも、彼は、外国の同僚、歴史家、考古学者、教授らとも対話を続ける機会を見つけている。彼らは、ホルティツャの元の職場の保護区の支援をしてくれている他、戦争の中にいる人々を支えてくれている。

ホルティツャは、「彼らは、いつも私にメッセージを書いて寄越すのだ。それがとても嬉しい。彼らは、私たちの部隊の物のためにお金を集めてくれている。彼らは、私たちを助けようとしてくれている」と述べ、携帯電話の中の写真やメールを見せてくれた。

彼は、最前線に近くなればなるほど、困難になると述べる。無人機が飛び、新しい機材が出てきて、戦争にはより技術が入ってきている。しかし、歩兵はいなくならないし、迫撃砲も同様だと言う。

彼らは、軍ではどんな状況でも、どんな姿勢でも眠れるようになると、冗談を述べる。機会があれば、眠りにつくのだ、と。そういう眠りは、不完全なもので、遅かれ早かれ体は疲弊するとも述べる。

ホルティツャは、「最も困難なのは、慣れることだ。恐怖に慣れること。恐ろしい時があっても、それに慣れる。それをノルマだと受け止める。ここで怖くない時はないよ。皆が怖い。人によって程度の差はあるが。飛来音が聞こえたら、それは、生きていることの証だ。自分の迫撃砲弾の音を聞くことはない。しかし、聞こえたら落ち着いて寝続けることができる。しかし、砲撃が続き、頭上を鉄の飛来音が聞こえたら、できるだけ遠くへ隠れたいと思う。それは動物的な恐怖だ。しかし、耐えなければならないことも分かっている。それが永遠に続くわけではないのだから。大切なことは、被弾しないことだ」と語る。

また彼は、前線から離れた時には、前線を訪れた時とは違う人間になっているだろうと、しっかり理解していると言う。戦争がもう自分のことを変えた、とも。

彼は、「私は、いくつかのことについて前とは全く異なる見方をしている。私はまだ、何が変わったのかを理解していないが、変化は確実にある。一方で、私は叙情的になった。他方で、私は自分が人を殺せるということを知っている。それが今後私の人生でどうなっていくのか…。戦争は人を大きく変える。戦争では、私たちがいかにしょっちゅう色々な『ばかげた事』、些細な事、大騒ぎやいさかいに時間を割いていたかを理解する。誰かに何かを証明しようとすることのために自分の人生を失うことがどれだけ無意味かを理解する。そんなことに何の意味があるのだ? そう、以前の様にはもうならない。人生から満足を得たい。何か役に立つことをしたい。国にも何か変化が生じることを期待している」と語る。

さらに彼は、「私は、人々が町で生活でき、地下に隠れることなく、カフェに行けるようになるように戦っている。その点において、私に問題はない。リヴィウへ行き、例えば、人々が暮らし、喜び、ベビーカーを見ては、『何てこった、どこかには普通の生活があるものだ』と思うのだ。そして、別のどこかに最低なことがあることを彼ら(安全な場所に暮らす人々)が知らないことについて、自分を誇りにすら思う。しかし、もう何も残っていない町もある。そこにはもう住めない。いくつかの土台が残っているだけだ、残念ながら」と話す。

どうして防風林を巡って戦わねばならないのか

ある時間になると(敵が何も知ることのないように、具体的な数字は出さないでおこう)、彼らが発電機を消して、エコフロー(携帯電源)を点けた。夜中は、常に誰かが見張り役となり、突如何かが起きたら他の者たちを起こせるようにしている。班の一人一人がその夜も見張りについていた。2時間半で交代し、次の者が見張りをし、それを朝まで続ける。

砲撃音が聞こえたので、私は彼らに、私たちの塹壕がどれだけ強固か尋ねる。

イェホールは、「ここは一層ではない。丸太は太い。ただし、正直なところ、その強度を試したいとは思わないが」と述べる。

彼は、ロシア軍が最前線の弱い場所を探り出そうとしていた時の激しい戦いをまた話し出した。今敵は少し弱くなっていると言いつつ、しかし、全ての場所で弱くなっているわけではないし、敵を過小評価すべきではないとも補足する。

「ヴァグネル兵とも戦った。彼らはかなり強い。彼らには、経験のある指揮官がいて、その指揮官があらゆることをかなり賢明に実行していた」と述べる。

イェホールは、領土を巡る戦いは困難だが、非常に重要だと説明する。「彼らが領土を多く奪えば奪うほど、彼らが町に近付くことになる。彼らが町に近付けば近付くほど、彼らの武器が民間人により多く到達することになる。防風林を巡るものであろうと戦うべきなのだ。町については…、バフムートを例に挙げよう。確かに、あの話には議論の余地がある。しかし、町は明け渡してはいけないのだ…。なぜなら、彼らが、町一つ、防風林一つで止まることはないからだ。防風林でも戦わないといけない」と述べる。

会話していると時間はあっという間に過ぎていった。彼らは、自分の寝床に就く。ある者はすぐに眠りにつき、ある者はスマホをいじっている。数分後には、無線の点呼が始まる。点呼は30分毎に行われている。彼らは、暗号化された言葉でのみ会話する。重要なことは、誰もが応答し、他の者に、その地点が無事だと伝えることだ。

不穏な静寂

前線の静寂はかなり緊張する。なぜなら、静かな時には何が起きるかわからないからだ。

この夜、私は1時間毎に目が覚めた。そのため、朝まで兵士たちと静かに交代に立つことができた。夜中、静かな衝突音が聞こえた。火砲が使われたのだ。私たち側の火砲も、敵側の火砲も。

朝6時、シェドイが、私がもう寝ようとしていないのを見かけて、コーヒーをすすめてくれた。コーヒーができ、他の人たちがまだ寝ぼけている間、私たちは静かに座り続けた。皆が各々スマホを触り出す。それから、シェドイが発電機を点ける。すると、充電できるあらゆる物がすぐにコンセントに差し込まれた。青年たちは、状況が今後どうなるかは誰もわからないと言う。だから、どの瞬間に砲撃が始まっても良いように準備をしておかなければいけない、全てが機能しなければならない、全てを最大限充電しておかないといけない、と。

ホルティツャは、彼の定番朝ごはんを作ってくれた。目玉焼きとソーセージだ。それから私たちは、地上に出て、1日で初めて、私たちがどこにいて、周りに何があるのか、よく見回すことができた。

歩き回る時間はなかった。兵士たちは課題を受け取り、すぐに空中偵察班から受け取った座標に向けて3発の砲弾を放った。

夜も朝も雨が降っていた。だから、私たちは陣地からは、極端に酷い状況の中を車が走った。立ち去り、あたりが「灰色」になり始める。でも、完全な暗闇ではない。私たちを連れて行ってくれた兵士たちは、私たちは運が良かったと言っていた。もし雨がもっと強く降っていたら、前線の道は崩れ、彼らのところには辿り着けなかっただろう、危ないから、と。

今は単に「リマン方面」とだけ呼ぶことのできる道を、私たちは数時間かけて、「流れされたり」「飛んだり」しながら進んだ。私たちは、家の方へと走りながら、あと数時間で熱いシャワーが浴びられる、お茶があるなどと考える。もしかしたら、警報が鳴るかもしれない。もしかしたら、爆発もあるかもしれない。なぜなら、私たちは前線近くの町で暮らしているのだから。でも、私たちの後ろには「ゼロ地点の住人」が残っている。彼らは、そこで爆発が聞こえるということは、もうそれほど悪いことではないということを知っている。爆発が聞こえるということは、生きているということなのだ。


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