「私たちにとっての戦争の終わりとは【勝利】」 ゼレンシキー大統領、ウクライナ独立記念日に演説
8月24日、ウクライナは31回目の独立記念日を迎えている。ゼレンシキー宇大統領は同日、国民に向けて、独立記念日を祝う演説を行った。
大統領府が演説動画を公開した。ウクルインフォルムによる演説全文の仮訳は以下のとおり。
「独立したウクライナの自由な民よ!」
そのことで、全てが困難なのだ。しかし、この4つの言葉(編集注:「独立」「ウクライナ」「自由」「民」)の背後に、多くのことがあるのだ。全面的戦争182日目。これらの言葉にどれだけの象徴と意味、活躍と喪失、喜びと痛みがあっただろうか。大切なことは、これらの言葉にどれだけの真実があるかである。私たちの真実だ。私たちの論争しようのない現在の真実だ。それを見ないこと、認めないことはできないのだ。私たちは、「独立したウクライナの自由な民」なのだ。彼らが私たちを殲滅しようとしているこの6か月間、私たちは「独立したウクライナの自由な民」なのだ。そして、それが私たちの未来についての真実でもある。私たちは、独立したウクライナの自由な民だ。
半年前、ロシアは私たちに戦争を布告した。2月24日、ウクライナ全体が爆発音と銃撃音を聞いた。8月24日に、「独立記念日おめでとう」という言葉を聞けなくなるところだった。2月24日、私たちは「おまえたちにチャンスはない」と言われた。しかし、8月24日、私たちは「ウクライナよ、独立記念日おめでとう!」と述べている。
この6か月間で、私たちは歴史を、世界を、自分たちを変えた。現在、私たちは、誰が私たちにとって本当の兄弟で、本当の友人で、誰が偶然の知り合いではないのかを知っている。誰が名前と評判を失わなかったのか、誰がテロリストの面子が失われることを心配していたのかを知っている。誰にとって私たちが必要ないのか、私たちにとってどこが本当に扉を開いているのかを知っている。私たちは誰が誰なのかを理解した。世界中がウクライナ人とは何者なのかを知った。ウクライナとは何なのかを。もう誰もウクライナについて「ロシアの近くのどこか」などと言ったりはしない。
私たちは、自らを尊重し始めた。どんな支援や支持があろうと、私たち以外の誰も私たちの独立を真剣に築くことはない。そして、私たちは団結した。
私たちはまだ「ハイマース」を持っていなかったが、私たちには戦車を素手で止める用意のある人々がいた。彼らに私たちのために空を閉ざす準備はなかったが、しかし、私たちには自らの大地を自分で閉じる用意のあるがいた。
ウクライナの人々とその勇敢さは、全世界を鼓舞した。私たちは、このシニカルな世界が正義を完全には捨てなかったという、新たな希望を人類に与えたのだ。そして、世界では力ではなく真実がまだ勝っている。金ではなく、価値が勝っている。石油ではなく、人が勝利している。
昨日はまだ、世界はまとまっていなかった。COVID-19は、誰が誰のためにあるのかを、鮮やかに示した。6か月間で、ウクライナはそれを変えた。世界の歴史の教科書全てに「ウクライナが世界をまとめた時代」という章が現れるだろう。民主主義に再び歯が生えた時代。専制体制が、自らの理解する言語によって返答を受けた時代。
ある者が言った。欧州はもうプレイヤーではない、と。弱く、分断され、消極的で、眠たげだ、と。ウクライナは全(欧州)大陸を目覚めさせたのだ。欧州は広場に出てきた。欧州は強力な制裁を科している。欧州は、ウクライナが将来の欧州連合(EU)加盟国であることを満場一致で認めている。
大企業は、金にはまだ、血、灰、死の匂いがすることを理解した。企業やブランドは、ロシア市場から去っており、「人」が潜在的損失より重要となった。
世界において、これまでに社会の意見がこれほどまでに政治家に影響力をもたらすことはなかった。今日、人々は権力に、傾向と行動のルールを命じている。無関心であること、消極的であること、緩慢であることは、恥だ。決断力のないこと、慎重すぎることは、恥だ。とろとろと曖昧に、過度に外交的に話すことは、恥だ。ウクライナを支えないことは、恥だ。そして、「ウクライナに疲れた」と話すことは、恥だ。それは、非常に便利な主張だ。「疲れ」というのは、目を閉じるための言い逃れである。現在、私たちは、世界のリーダーや普通の人々から、「私たちはあなたと最後まで、あなたたちの勝利までともにいる」との言葉を聞いている。
親愛なる民よ!
私たちはいつも独立のために戦った人たち皆を讃えており、この日を主要な祝日と呼んできたし、青と黄色の旗を神聖なものと呼んできた。手を胸にあて、国歌を歌い、誇りを持って、「ウクライナに栄光あれ!」「英雄たちに栄光あれ!」と述べてきた。
2月24日、私たちには、私たちの言葉を行動とともに証明しなければならなくなった。その日、実質的に2度目の全ウクライナ国民投票が行われたのだ。もう一度重要な質問が生じたのである。もう一度、決定的な選択が生じたのだ。しかし、今回独立に対して「賛成」を示すのは、回答用紙においてではなく、魂と良心の中においてだった。投票所へ行くのではなく、軍事委員会、領土防衛部隊、ボランティア運動、情報部隊へ行く、あるいは単に強固かつ勇敢に自分の場所で働くことが必要だった。全力で、共通の目的のために。
私たちは全てを変えた。ある人は、人として、もう一度生まれた。個人として、市民として、愛国者として、単に、ウクライナ人として。そして、それはもちろん良いニュースである。ある人は、消えた。亡くなったのではなく、死んだのでもなく、しかしばらばらになったのだ。人として、個人として、市民として、ウクライナ人として。そして、それもまた悪いニュースではない。私たちはもう、互いに邪魔はしない。私たちは選択をした。ある者はマリウポリを選び、ある者はモナコを選んだのだ。
しかし、私たちは、どちらの選択をした者の方が多いか知っている。私たちはとうとう本当に団結したのだ。2月24日朝4時に世界に現れた新しいネイション(国民)。生まれたのではなく、再生したのだ。泣かなかった、叫ばなかった、怯えなかった、逃げなかった、屈しなかった、忘れなかったネイション。
この旗は、権利上あるべきである全ての場所に現れる。ドンバスにも。クリミアにも。敵は、私たちが花とシャンパンで出迎えると考えていた。実際には、(編集注:葬式用の)花輪と火炎瓶を受け取った。喝采を期待し、爆発を聞いたのだ。
占領者は、数日間で私たちの首都の中心部をパレードで進めると信じていた。今日、フレシチャーティク通りには、その「パレード」を見ることができる。敵の機材がキーウ中心部に現れることができるのはこういう形だけである、ということの証拠だ。燃え、崩れ、破壊された機材だけだ。
私たちにとって、あなた方にどんな軍があるのかは重要ではない。私たちにとっては、私たちにどんな大地があるかが重要なのだ。私たちは、大地のために最後まで戦う。
私たちは6か月間耐えている。私たちにはそれは困難だ。しかし、私たちは拳を握りしめ、自らの運命を築いている。新しい1日1日が、降伏しないための新しい理由である。なぜなら、これまでの様々なことを乗り越えた今、私たちはもう、最後まで到達しないわけにはいかないからだ。
では、私たちにとって戦争の終わりとは何か。以前は、私たちは「平和だ」と述べていた。今は、「勝利だ」と述べている。
私たちは、テロリストたちと相互理解は模索しない。あなた方が「守り」に来たロシア語なら理解するけれども。あなた方はそうして、「解放しに来た」何千人の人々を殺したのだ。
そして、私たちには、ロシア語で行動する殺人者、強姦者、略奪者より、英語を話すジョンソンの方がはるかにわかるし、近しさを感じる。
私たちは、ピストルをこめかみに当てられた恐怖でもって交渉のテーブルにつくことはない。私たちにとっての最も恐ろしい「鉄」は、ミサイルでも飛行機でも戦車でもなく、手錠なのだ。塹壕ではなく、束縛なのだ。
私たちが手を上にあげるのは一回だけ、私たちの勝利を祝う時だけだ。ウクライナ全体で祝う。なぜなら、私たちは自らの大地、自らの人をもって交渉することはないからだ。私たちにとって、ウクライナとは「全ウクライナ」のことである。25の全部の地域、譲歩も妥協もない。私たちはそんな言葉は知らない。それらの言葉は2月24日にミサイルで破壊されたのだ。
ドンバスはウクライナだ。その道がどんなものであろうと、私たちはドンバスを取り戻す。クリミアはウクライナだ。その道がどんなものであろうと、私たちはクリミアを取り戻す。
あなた方の兵に死んでほしくないだって? ならば私たちの大地を解放せよ。 母に泣いてほしくないだって? ならば私たちの大地を解放せよ。それが、私たちのシンプルでわかりやすい条件である。
独立したウクライナの自由な民よ!
私たちはこの日を様々な場所で迎えている。ある者は塹壕と拠点、戦車や歩兵戦闘車の中で、海上や空中で迎えているだろう。ある者は、前線で独立のために戦っているだろう。ある者は、道中で、車、トラック、電車の中で迎えているだろう。独立を巡って戦いながら、必要な物を前線に届けながら。ある者は、スマートフォンの中、あるいはコンピューターの前で迎えているだろう。その人も独立を巡って戦っている。前線へと物を届ける道中にいる人のための資金を集めながら。
私たちは、この日を様々な状況、条件、様々な時間帯の中で迎えているが、しかし、目的は一つ、ウクライナの独立と勝利を守ることにある!
私たちは団結した。
ウクライナよ、独立記念日おめでとう!
ウクライナに栄光あれ!
写真:大統領府