コンスタンティノープル総主教への譲渡が予定されているアンドリー教会に関する9つの事実
バルトロメオ・ラストレッリからヴァルソロメオス1世へ。
ポロシェンコ大統領は、最高会議に一つの法案を提出した。この法案は、アンドリー教会をコンスタンティノープル全地総主教へ恒常的利用のために譲渡することを提案するものである。もしこれが実現するとなると、そこはコンスタンティノープル総主教にとって、教会であり、住居であり、コンスタンティノープル総主教庁聖会議のコミュニケに記された、総主教に直接従属する修道院(stauropegic monastery)になることになる。
近くギリシャの聖歌が鳴り響き始め、コンスタンティノープルの教会の聖職者が聖体礼儀を行うことになる、このアンドリー教会。この教会について知られいていることを紹介しよう。
1.アンドリー教会は、古キーウ(キエフ)山の斜面に建てられたもの。古キーウ山はこの教会にとっての自然な土台であった。ネストルの年代記によれば、はるか昔、キーウにはキリストの使徒である聖アンドレア(アンドリー)が訪れたことになっている。聖アンドレアは、山を登り、キーウの山々の上に「神の恵みが降り注ぎ、町は大きく繁栄し、神が多くの教会を建てることであろう」と予想したと言われる。そして、山の上に、自らの言葉を証言するものとして、十字架を建てたようである。
2.アンドリー教会の設計を行ったのは、皇帝の宮殿の設計をした建築家バルトロメオ・フランチェスコ・ラストレッリ。1747~1762年の間バロック様式で建設されたこの教会は、現在まで建築様式と内部の装飾を維持しており、これによりバロック教会内装の優れた例とみなされている。
教会には、イタリアから運ばれた聖アンドレアの体の一部とアレクサンドル皇帝から贈呈された豪華に装丁された福音書が所蔵されている。
3.アンドリー教会の高さは、50メートル。
4.アンドリー教会は、2002年にドイツで出版された「世界の1000の奇跡 五大陸をまたがる人類の傑作」に掲載された。
5.1949年、アンドリー教会敷地には、キーウ神学校が置かれていた(1960年に閉鎖)。教会内部には、聖ヴァルヴァラの体の一部が保存されていた。神学校の閉鎖後ほどなく、「危機的状況」にあると理由付けられ、アンドリー教会自体も閉鎖された(その際、聖ヴァルヴァラの体の一部は、キーウのヴォロディーミル大聖堂へ移された)。
6.アンドリー教会の建つ台石には、伝説的な人物、狂人イヴァン・ボーシー(イヴァン・ラストルフイェウ)の住居が建っていた。彼は、キーウで始めてメセナ(文化・芸術活動支援)に従事していた人物である。イヴァン・ボーシーが集めた資金により、慈善目的の支援施設が運営され、最大300人の人々に対し、食事、宿泊、医療、衣服の提供していた。
7.プロニャ・ポコリウナとホロフヴァストフの結婚式場は、アンドリー教会の階段だった。
映画「二羽の兎を追って」の一場面
8.1950年代、アンドリー教会の典院は、ミコラ(カプシュチェンコ)神父であった。彼は、有名な女優ライーサ・オキープナの父。
9.1942年5月14日、アンドリー教会では、後のウクライナ正教会自治独立派の総主教であるムスティスラウ(スクリプニク)が叙聖を受けて、主教となった。同氏は、1990~1992年にかけて、ここで聖体礼儀を行っていた。
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アンドリー教会は、皇帝一家の教会だったが、現代に入るとウクライナ正教会自治独立派の教会となった。そして、象徴的なことに、現在、同教会は、ウクライナに独立を与えようとしている、最高位の総主教の教会となろうとしている。
ラーナ・サモフヴァロヴァ、キーウ