以前、ウクライナの国家警護隊アゾフ連隊(編集注:現「アゾフ旅団」)にて広報担当を務めていた、コードネーム「オレスト」こと、ドミトロー・コザツィキー氏。彼の写真により、世界は、マリウポリ防衛がどのように行われていたのかを知ることができた。彼は、仲間とともに84日間にわたり、マリウポリの製鉄工場「アゾフスタリ」に滞在し、その後4か月間にわたりロシアに拘束された。9月21日、コザツィキー氏は、解放された215人のウクライナ防衛者の中に加わり、ロシアの拘束からウクライナへと戻ってきた。
ウクルインフォルムは、これまでコザツィキー氏について何度もニュースを書いてきた。今回、ウクルインフォルムの記者は、彼の出身地であるジトーミル州マリン市にて休日に実家に戻ってきていた彼と会うことができた。自身のアゾフスタリでの滞在、ロシアによる拘束、解放後の海外への渡航、アゾフ連隊からの離隊、将来について、コザツィキー氏に話を聞いた。
聞き手:イリーナ・チリツャ(ジトーミル)
マリウポリがすでにないことは、信じがたい
コザツィキーさん、ロシアの拘束から解放されてから、故郷のマリン市へはよく戻っていますか。
私はがここへ戻ってきたのは2回だけです。1度目は、祖母の葬式のために1日だけ戻り、翌日にはワシントンに向かって出発しました。今回が2度目です。ワルシャワへの渡航の前の休暇に家へ戻れるように頼んだのです。
マリウポリは全面的戦争が始まるまではあなたの第二の故郷でした。最近あなたはソーシャルメディアに、破壊された建物の中に建つ、あなたが当時暮らしていた建物の写真を公開しましたね。平和な頃のマリウポリを、どのように記憶していますか。
私は、2015年年末に軍役でマリウポリへ行き、以降はほぼずっとそこに住んでいました。そこは非常によく発展した町でした。私は、都市計画に関心があったので、町がどのように発展していくのかを観察するのはとても面白かったです。さらにマリウポリは私にとって、多くの意味で大きな町、初めての町でした。私の最初の真剣な仕事と、提案された素敵な役職、激しい恋愛、買い物、アパートの改修がありました。マリンも私にとっては、多くのことが初めて生じた町ですが、マリウポリは私が成長した町でした。
マリウポリは今、多くの人の胸を痛めています。町を仕方なく去らなければならなかった人の中には、そこでは血が流れ過ぎてしまったとして、もう戻れないという人もいます。これに対して、マリウポリへ行き、あるがままの姿を受け入れたいと述べる人もたくさんいます。あなたは、ウクライナ軍がマリウポリを解放した後、町を訪れますか?
ええ。ずっと住めるようになるとは思いませんが、しかし、そこへ行って、自分のお気に入りだった場所を見たいとは思います。もちろん、それらは全て破壊されていますが。私はまた、「アゾフスタリ」へも行って、ゆっくりとそこに何が残っているのか見てみたいです。回顧して、あらゆるものを思い出して、それを経験して、解放して、マリウポリはもうないのだという事実を受け止めたい。そのためにそこへ行きたいです。私は、そこの多くの写真を見ましたが、今はまだそのことを受け止められません。それは、まるでリアリティ番組のようなのです。全ての物を自分の目で見たら、その現実を受け止めるでしょう。
「アゾフスタリ」の匂いが思い出すこと
あなたは、映画祭「Docudays UA」であなたが制作した映画『要塞マリウポリ オレスト』を見た色々な町の人々とのオンライントークに招待されていましたね。映画を見たり、視聴者と話をしたりすることで、アゾフスタリへ戻ったような気持ちになりませんか?
実は、そういうもの(映画)を見ると、気持ちが楽になります。それをモニターで見ていただけでなく、実際に経験していたからです。私は今あなたと話していますが、この瞬間も私は再び血とケロシンの匂いを感じています。または、空爆時の爆弾に使われている何かの匂いです。私はそれが何の匂いかはわかりませんが、しかしその匂いは記憶しています。その匂いが時々、心理的なレベルで蘇ってくるのです。
そこで近しい人が亡くなった人々のこと、身近な人がまだ拘束されている人のことを考えるのは苦しいです。私は、それら全てをもう乗り越えています。私は社交的なタイプで、私は全部話してしまった方が楽です。話す度に、それら全てを思い出すことが楽になっています。一方では、私はそれら全てを感情面で楽に受け止められるようになっており、それは良いことなのですが、他方では、内側、感情のレベルでは、私は、たくさん話すことによって、それらの出来事の価値を下げてしまっているのではないかとも思っています。
アゾフスタリに滞在していた時、あなたは、自分の写真や動画で歴史を記録していると思っていましたか?
私は、それは記録して、今見せなければいけないことを理解していました。出来事が決まるこの瞬間、私たちが生き残るかどうかが決まる「今」こそ見せなければ、と。しかし、それが歴史に残るかもしれないなどという理解はありませんでした。私は、マリウポリについて痛みを感じていた。そして、私はそのことを世界中に示したかったのです。
あなたは、アゾフスタリに84日間いました。どんな印象、出来事を最もよく覚えていますか?
最初の数日です。それまでは、私は毎日コンビナート(編集注:アゾフスタリ)のそばを通っては、工場に入ってみることを夢見ていました。産業建築に関心があったからです。私たちが初めてそこに入った時の「かっこいい」「面白い」という気持ちは鮮烈でした。そこを歩き回って、見て回ることができたのですから。
2つ目の気持ちは、負の感情です。4月15日、私たちの部屋の隣のシェルターに爆弾が投下され、部屋が1つ全壊しました。
民間人の避難が行われなければならなかったのですが、しかし常に砲撃があり、無人機から弾薬が投下される中、私たちは外に出ることが全くできず、人々を避難させられませんでした。私たちはそこに留まったのですが、その後そこにも爆弾が飛来し、全ての出口が完全に埋まってしまいました。神のおかげか、その時は誰も死にませんでした。爆発で、大きな穴が開きました。もしあなたが民間人が避難する際の動画を見ていたら、その穴から人々が引き上げられている様子を見たはずです。私たちは、そのシェルターから朝走って出て、上空に何も飛んでいないかを確認していました。
私たちがコンバーター工場を歩いていた時のことですが、そこにある物はどれも巨大なんです。バケツも、フックも…。全てがとても大きいので、自分が小さくなったように感じました。そこに太陽光が入り込んできていて、それがとても美しくて…。それは私に似ていたんです。なぜなら私は、そういうおぞましい状況でも、何かしらきれいなものを見つけるタイプなので。
多くの不快な時があったのは確かです。私は、民間人のところから砲撃の中を私たちの怪我人のいるシェルターに駆け込んだ時のことですが、そこにも爆弾が飛んできました。手術室が破壊されました。覚えている限りでは、神よ、そこには誰もおらず、機材だけが破壊されたのだったと思います。
そして、負傷者のいる部屋も破壊されました。彼らは死にました。
戦争中、軍人たち全員にとって最も苦しいのは、仲間を失う時ですが、私たちは、残念ながら、アゾフスタリで毎日その瞬間を目にしていました。軍役にいると、自分の部隊の人は家族になり、友になります。彼らを失うことは、大きな痛みを覚えます。
アゾフスタリでは、あなたは民間人、特に砲撃から隠れていた子供の動画を撮っていましたね。彼らがその後どうなったか知っていますか?
ニューヨークで、私は、当時そこで一番小さな子供を抱えていたハンナ・ザイツェヴァに会いました(編集注:侵攻開始時、ザイツェヴァ氏の子供は生後約3か月だった。彼女は、子供とともにアゾフスタリのシェルターに65日間避難していた)。また、シェルターから一人の女性が私にメッセージを書いてよこし、お礼を言われました。ハンナ・ザイツェヴァは、彼ら(当時アゾフスタリにいた民間人)の大半はウクライナが管理する地域へ避難したと言っていました。一部は、マリウポリに残っています。私は、彼らを非難はしません。ただし、その中の当時そこで文句を言って、常に怒り狂っていた人のことなら非難できますが。
ロシアに拘束されていた時、母の誕生日までに解放されることを祈っていた
アゾフスタリからの避難についてはどうやって知ったのですか? また、避難すること、そして避難後に拘束されなければならないということをどう受け止めましたか?
私は、その決定が採択されるほぼ全ての段階を見聞きしていました。なぜなら、生きていたし、指揮所で働いていたので、話を全て聞いていたのです。私には、自分の指揮官たちへの尊敬と信頼の強い感情があり、疑念は一切湧きませんでした。私は、仲間たちと一緒に居続けるということを落ち着いて受け止めていました。大きな心配はありませんでした。ただし、敵に向かって歩いて行く時は、震えましたが。
最近、(ソーシャルメディア上の)いくつかのグループで、女性たちが私の「アメリカの声」のインタビューでの発言を引用していました。「拘束されている時は少しだけ落ち着きがあった。なぜなら、生きていけることがわかっていたから。大切なことは、ただ耐え切ることだった。どれだけ耐えないといけないのか、1か月なのか、2か月なのか、1年なのかは不明だったが、しかし、生きて外には出られる(編集注:ことはわかっていた)」というものです。彼らの多くが、私のことを、バカだ、拘束時に起きることを過小評価している、などと言って批判しました。私は、拘束されている親しい人皆を尊敬していますし、彼らのことを同情していますし、多くの親友たちがまだ拘束されています。ただ、誰も(インタビューの)次の発言のところまでは読んでいないのです。「しかし、そのような気持ちも、オレニウカでテロが起きるまでのことだった。」
では、その発言は、文脈から切り取られていたということですか。
そうです。的を外した批判を受けるのは、ちょっと辛いです。私に対して、オレニウカで起きたことを軽視している、と言う人がいますが、私がそこで経験したことを知る人は少ないのです。
あなたは、テロが遭った時にオレニウカ収容所にいたのですか?(編集注:死者約40名、負傷者130名が出たとされる、被占領下ドネツィク州オレニウカの収容所へのロシアによる砲撃事件。アゾフスタリから投降した軍人の多くが同収容所で拘束されていたとされる。ロシアは、国際赤十字委員会などの第三者機関の事件現場へのアクセスを認めていない。)
その(テロの起きた)建物にはいませんでしたが、その日私はオレニウカにはいました。私の友人がそこで1人死に、もう1人は脾臓を失いました。
あなたは、拘束されていた時、自分がどこにいるかよくわかっていたのですか?
私たちが避難するために外に出た時、オレニウカへ連れて行かれることはわかっていました。私はオレニウカに2か月間いました。8月2日、私はドネツィクの「検察」へと連れて行かれ、いわゆる「DPR」の「刑法典」における「テロ組織参加」の条項で断罪されると説明されました。その条項は、アゾフの隊員皆に言い渡されたもので、中には他の条項が付け足された者もいました。夜、私はドネツィク市の居房に移されました。そして、8月4日には、ドネツィク拘置所に移されました。以降、私は、解放されるまでその拘置所に入れられていました。そこには主にアゾフの隊員が入れられていました。
拘束されている時に、あなたに元気を与えていたものは何ですか?
私にとって幸運だったのは、私たちの指揮官とは違って、独居房には入れられなかったことです。というのも、私はとても社会的な人間なので、(編集注:もし一人にされていたら)心理的に乗り切れたかどうかわかりません。周りの仲間が支えてくれること、彼らがいること、いずれ「終わる」のだから、とにかく乗り切らねばいけないという信念があったことにより、穏やかな気持ちになれました。そこでは会話以外は何もなかったのですが、会話が拘束を楽にしてくれていたのです。
「前線には信心のない者はいない」というフレーズを何度も聞きました。あなたは、アゾフスタリにいる時や拘束されていた時の間ずっと、神を信じていましたか?
戦争において皆に信心があるわけではない、とは言っておきましょう。私自身は、祈りましたし、神に呼びかけましたし、私はそれで楽になりました。ドネツィク拘置所にいた時、(被拘束者)交換プロセスが始まる日まで、私は夜になると横になり、「主の祈り」を読み、神に向かって、母の誕生日を祝えるようお願いしていました。彼女には信仰があり、いつも私を正しい道に導いてくれた人であり、それに値する人だ、と。祈りからぴったり15分後、居房の扉が開き、私たちは数人ずつ外に出され、何らかの名簿との照合が行われました。それは消灯後で、それまではそんなことはありませんでした。私は、もうすぐ私も呼ばれるという感じがしていたので、もうベッドの下から這い出ていました。そして、本当に私も呼ばれたのです。私たちはその後はもう寝付くことができませんでした。私は、それが「交換」であることを確信していましたし、翌日確かに交換プロセスが始まったのです。私たちは居房から出され、何らかの文書に署名をさせられ、その後連れ出されました。私は、こうして母の誕生日に間に合ったのです。
どうして、「ベッドの下」にいたのですか? 居房には全員分の場所はなかったのですか?
ええ、場所がありませんでした。なぜなら、10人用の居房でしたが、私たちは25人いたので。
数枚の写真だけの作家でありたくはない
あなたの映画「要塞マリウポリ オレスト」には、あなたがアゾフスタリにいた時に、感情がほとんど全くなくなっていたけれど、アゾフスタリを仲間とともに去る時には、缶詰が開くかのように、全ての感情が開く、と述べる場面があります。ドミトローさん、拘束から帰還した今、あなたは自分の全ての感情に自由を与えられていますか?
私は、感情に自由を与えています。でも、全ての感情が外に出てくるわけではない。私は、もともとは私の心はよく鍛えられていると言われます。何でも気楽に受け止めるか、あるいは必要ないものは跳ね返せるという意味です。(しかし今は)時々、泣きたくなることがありますが、しかしあまりうまくいかない。まだ時間が必要です。
アゾフスタリからの避難の前、あなたは、自分の写真を色々なコンテストに送るようお願いしていました。あなたが拘束されていた時、あなたの写真や映画『アゾフスタリの最後の日』は、海外のものを含め、多くの賞を取っています。そうなることを期待していましたか? ウクライナに戻ってきた時、その賞のことをどう思いましたか?
短編映画『アゾフスタリの最後の日』 ドミトロー・コザツィキー制作
拘束されていた時は、そのことについては全く考えが及びませんでした。一定程度プロの写真家として認められたことを嬉しく思います。創作を行う人間である私にとって、それは大切なことです。何よりも、その写真がアゾフスタリとマリウポリの悲劇を伝えたり、捕虜をずっと思い出したりするのにるのに役立っていることが嬉しいです。私にとっては、賞金よりも、私の写真が色々な集会や、思い出の会合や、写真展、マリウポリやアゾフスタリや捕虜についてのイベントで使われていることの方が大切です。
私は時々叱られますし、自分でもよくわかっていることですが、このような賞全てを完全には喜べません。なぜなら、そのために払われた代償のことをよく理解しているからです。
私は、数枚の写真だけの作家ではありたくない。私は、さらに素晴らしい写真を制作していきたいと思っています。
あなたは今や有名人です。通りや交通機関の中では、どんな反応がありますか? 注目されることが迷惑ではないですか?
迷惑ではないですが、しかし、居心地はとても悪いです。なぜなら、私は、自分の仕事をしただけの普通の人間なので。自分を通じて、ウクライナ人の捕虜に対する姿勢がどれだけ変わったかが見えていますが、しかし、あまりメディアに取り上げられない他の軍人たちがいることは、残念だし、そのことに居心地の悪さを覚えています。どうして今も拘束されているメディアに知られていない人々のことは話されないのでしょうか? これら写真や動画は、手に武器を持って、町や私のことを守ってくれたアゾフスタリの防衛者のおかげで制作されたものです。私は、報道関係者にはいつも、今も拘束されている人々のことも模索して欲しい、彼らのことも話して欲しいと頼んでいます。
米国滞在中は、ウクライナのことを話すあらゆる機会を活用した
あなたは最近米国から戻ってきましたね。訪問の目的は?
在米ウクライナ大使館に、私の写真が表紙に使われた書籍『Relentless Courage: Ukraine and the World at War』の出版発表会へ出席するよう、招待されたのです。書籍は、外国人、とりわけ米国人に、ウクライナで起きている辛い真実を伝えることが目的でした。そこには、機微な内容や、死体の写真もでてきますが、しかし、悲しいながら、それは私たちのところで今起きていることなのであり、話さなければいけないことです。なぜなら、毎日人々が砲撃で死んでいるのですから。
私たちは、オクサーナ・マカロヴァ駐米ウクライナ大使と一緒に様々なインタビューを受けました。私は、イェウヘン・アフィネイェウシキー監督の映画『炎の中の自由 ウクライナの自由を巡る戦い』の上映会にも招待されました。映画には、私の撮影したものも使われており、私についても少し話がありました。私たちは、その映画を紹介してまわり、上映のたびに、質疑応答がありました。
イベントの一つで、私たちは上院議員と会い、アゾフスタリや捕虜について、私たちに武器が必要だということについて話しました。私たちはまた、その映画を国務省でも上映しました。ウクライナを話せるあらゆる機会を活用しました。
最近あなたは、ソーシャルメディアにて、「アゾフ連隊」を離脱したと報告していましたね。今後は何をする予定ですか?
「アゾフ」は国家警護隊の傘下であり、私は部隊を抜けましたが、国家警護隊内には残っています。現在、国家警護隊の中か内務省内でポストを探しています。私は、戒厳令が終わるまで軍人であり続けます。
私は、人々に英雄として扱ってもらいたくはありません。いくつかの報道機関は、私があたかもバフムート近郊にいるかのように書き始めました。私は、今後私のことをアゾフ隊員として紹介するのはやめてくれとツイートを書きました。私が突然不適切なことをしてしまった場合に、部隊の評判が落ちるようなことは望みません。
私たち皆にとってターニングポイントとなった2022年も終わりに差し掛かっています。一年の総括をお願いします。あなたにとって、今年最も良かったことと悪かったことは何でしたか。
最も悪かったことは、マリウポリ、アゾフスタリ、拘束、そこにまだたくさんの人がいることです。最も良かったことは、ウクライナの人々の団結と勇気です。
2023年にウクライナの人々のためのあなたの願いは何ですか。
私は、どれだけ多くの人が、自分の近しい人を今も拘束されているかを理解しています。私たちは、ワシントンでジョージタウンで勉強している1人の女性に会いました。彼女は、ドネツィク拘置所で同じ居房にいた私の仲間の妹であることがわかったのです。彼はまだ拘束されています。
私は、もうすぐ皆の大切な人たちが拘束から解放されること、この戦争から解放されることを願います。私たちの勝利によってのみ終わる、この戦争から。
※編集注:このインタビューのオリジナルのウクライナ語版は、2022年12月13日に公開された(リンク)。