ウクルインフォルムは、インタビュープロジェクト 「勝利の指揮官」で、その知識、経験、権威、そして勝利への揺るぎない信念によりウクライナの歴史にその名を刻んでいる様々なランクの指揮官たち話している。今日のゲストは、領土防衛部隊第126独立旅団第220大隊のイーホル・ハルス中隊長だ。彼はケルソン地方左岸の橋頭堡でクリンスキー作戦に参加した。彼は、ヘルソン州のドニプロ側左岸の橋頭堡だったクリンキでの作戦に参加していた。
聞き手:ジアーナ・スラヴィンシカ
写真:イッリャ・ルサチコウ
イーホルさん、あなたの経歴には、軍事大学で学んだことが書かれていますね。しかし、全面侵攻が始まる前、あなたの仕事や生活はそれとはまったく関係ないものでした。あなたは会社の取締役で、自分のレコーディング・スタジオを持っていましたね。当時の勉強は…、いずれ自分の人生を結びつくことの予感があったのですか?
正直なところ、私は研究所で勉強しましたが、自分の将来を軍と結びつけるつもりはありませんでした。それでも、オデーサ陸軍学校に入り、そこで2年半勉強しました。その後、キロヴォフラードで集まりがあり、そこで宣誓して、証明書を受け取りました。そこで、私の軍隊との関わりは終わったはずでした…。しかし、全面侵攻が始まると、私は召集令状を待つことなく、軍事委員会へ向かいました。
しかし、あなたには全てがありました。仕事も、満足感をもたらしていた趣味も、家族も。そして、あなたはそれら全てを不確かな未来へと先送りして、戦いに行くことを決めました…。
私は2012年に軍人としての宣誓をしており、予備役将校にったのです。男は男として、国を守らなければならない。私は国を守ると誓い、敵が攻撃してきたから、守っているのです。他のことはないです。ジャーゴンですみませんが、私にとってこれは、ガキの使いではないのです。
その時、この戦争がいつまで続くと感じていましたか?
正直なところ、そんなことは考えませんでした。ニュースを読み、敵が前進していること、あらゆる方面で前進していることはわかりました。ただし、それがいつまで続くのか、国家を守りに行ったとして、自分がどれだけ生きられるのか、というような考えはありませんでした。行動しなければならなかったし、できることを全て行ったのです。
どのようにして中隊隊長になったのですか?
私は軍籍証明書を持って入隊し、領土防衛部隊の第126旅団に配属されました。当初は小隊の曹長として指揮を執り、他の人をまとめ、訓練していました。民間人出身者には大きな問題がありました。少しでも軍事訓練を受けていたら、機関銃とは何か、武器とは何か、武器はどう扱うのかとか、戦術の基本的な要素などを理解します。機関銃を初めて見た人は、どう扱えば良いのかがわかっていませんでした。そして、私たちがまだオデーサ近郊にいた頃は、人々が少しでも何かを学べるよう、各人が何かしらに取り組んでいました。武器の扱い方を知らなければ、兵科も何もありません。
前任の中隊長を亡くした兵士たちのために、あなたが中隊長にならなければならなかったことは知っています。どうやって彼らの信頼を得ることができたのですか?
私たちの中隊の小隊長ポストが空席になった時、私は第3小隊の隊長に任命されました。そして、最初のローテーションでミコライウ方面へ配属されました。帰還後、私は訓練準備中隊の副隊長に任命されたのですが、それは私には向いていませんでした。 私は人々と一緒に仕事をしなければならないし、戦争のある前線で彼らと一緒にいなければならない、書き物をするようなところではだめです。そんな時に、私たちの大隊の隣の中隊長から誘いがあったのです。私はその司令官の考え方や戦争に対するビジョンがとても気に入りました。彼は決してじっとしていることがなく、常に何かを発明する軍事「マネージャー」でしたし、そこに私はとても感銘を受けました。私は彼の提案を受け入れました。しかし、異動までしばらくの間待たなければならず、その間に彼は亡くなってしまいました…。そして私は、誰のこともしらない中隊の隊長になることになったのです。それは2023年でした。苦しい年でした。
どの時点で(部下との)つながりが生じたと感じましたか?
コザツィキー島です。私はそこで、言うなれば中隊長としての仕事ではないことをしなければなりませんでした。負傷者や戦死者の遺体を、兵士たちと一緒にオール、ボートで島から運び出さなければならなくなりました。人々は、私が誰も見捨てないこと、私が彼らと一緒にいるということを目にして、そこで信頼が生じました。その後、私は、クリンキに仲間を送るようにという命令を受けたのですが、私抜きでは誰もそこへは行かないと言いました。すると、「そうだ、そこには中隊長が必要だ」と言われたので、私たちはクリンキへ向かいました。その時、全てのことが、私たちの予想できるよりもうまくいっていました。
私は、どのようにして「志願兵ハルス」が「隊長ハルス」へと変貌したかを知りたいです。隊長にはどのような資質が必要ですか? それから、運送会社の取締役としての経験は今役に立っていますか?
管理の経験でしょうか。私は人生においてずっと、バレーボールチームであれ、サッカーチームであれ、常にキャプテンであり、組織者であり、(大学の)グループの代表でもありました。私は常に人々と協力し、組織しています。そう、私は民間の管理職の経験もあり、シーズン最盛期には150人もの部下を抱えていました。つまり、民間人としての生活で、私はすでに優秀な「中隊」を管理していたし、出向部隊とも作業していました。私は、人へのアプローチの仕方、彼らから結果を引き出す方法を理解していた。規律とモチベーションを両立させるような仕事の進め方をです。走りまくって、犬のように吠えまくるのではなく、人々が何かを行うようにするためにです。兵士たちは敵を倒すために集まっているのだから、そのために毎日毎日何かをしなければならない。そこで私の、指揮官としての仕事は、指揮して管理することです。
とすると、隊長は同時にマネージャーでなくてもならないのですか?
もちろんです。どんな隊長もマネージャーでなければなりません。部下のいない人がマネージャーになれるわけがないです。私たちの戦争は毎月、毎週変化しており、時には、今日当たり前だったことが、翌日にはもう通用しなくなるというようなこともある。隊長がマネージャーであれば、分析します。「私たちは損失を出したのだから(損失が兵員でない場合もあります)、結論を出さねばならない」と。そうすれば、私たちは昨日と同じことをしなくなるのです。
以前あなたと話した時、あなたは「すべては正義に基づいている」と話していました。しかし、私には、戦争における「正義」とはかなり揺れ動くものに思えます…。
正義とは、空気や水のような、基本的なものです。時には感情が「暴走」することもありますが、しかし、誰にとっても同じ基本となるルールがあります。それが正義です。戦士は、能力を示したら、報酬を得ます。戦士が、おろそかなことをすれば、罰を受けます。それが規律とモチベーションの基本です。ある者は戦っている時に、他の者は何もしていなかったのにを報酬を受けたとなれば、非常に多くの不必要な疑問が生じることになります。何よりも疑問は直属の隊長に対して生じます。正義がなければ、兵員は隊長を受け入れないでしょう。その場合、隊長は棍棒を持って走り回ったり、皆を追い回してはいけない。隊長のすることは、やってきて、穏やかに「そこへ向かい、それをしなさい」と言うことです。その返事は「了解」であり、向かい、遂行し、報告する。それが全てです。
あなたのインスタグラムの投稿を覚えています。あなたは、「隊長は兵士であり続けるべきだ」と話していました。
それだけではありません。今日あなたは中隊長になり、次の日には小隊長になり、軍曹になり、そして兵士にならなければならない。軍曹としては、あなたは人員をチェックしなければならない。これは、全員を追いかけ回さねばならないという意味ではありません。しかし、兵士のところへ行って、『ライフルを貸してくれ、おい、なぜきれいにしていないんだ』とは言わなければならない。それはまた、その兵士の直属の指揮官である軍曹が自分の仕事をしていないということでもあります。なぜなら、それは彼がコントロールすべきことだからです。というわけで、中隊長は、1分間だけ軍曹になるわけです。そして、兵士たちの陣地へ行き、アサルトライフルを手に取り、試しに使ってみて、どうして塹壕が深くないのかと尋ねてみるわけです。私はある兵士に、「どうして、こうではなく、そうしたのだ?」と言ったことがあります。つまり、自分も兵士になったわけです。中隊長が毎日、中隊の全ポジションについてみたら、その時、兵員を失わないで戦闘を遂行する方法を、翌日のチャンスを理解できるのです。
あなたは、インスタグラムに「この写真にはプロの兵士は一人も写っていない」というキャプションのついた写真も投稿していました。それは、自分の兵士の士気を高めるためですか?
私の小隊は全員民間人で、(職業)軍人は一人もいませんでした。若年徴兵を経験した者さえいませんでした。そして、私たちが始めて交代で配備され、そこで初めて無人航空機の音を聞き、120ミリ迫撃砲や多連装ロケットシステムやクラスター弾が自分にどのような被害をもたらすのかを理解しました…。しかし、砲撃を受けている陣地にいる隊員たちと一緒にいるのは素敵な経験でした。彼らは、何だか嬉しそうですらあるのです。アドレナリンが出て興奮しているのでしょう。あなたは民間人の生活をしていたとしても、戦士になれる。経験豊富な人が周りにいれば、とても早く学ぶことができる。最近は、訓練施設から私のところに来た人たちは、その後3週間経験のある兵士たちと一緒にオストリウ、クリンキ、コザーチ・ラーヘリ、ミコライウカ…などを過ごします。戦士「ティフル(虎)」は何でも知っているのです…。
戦士「ティフル(虎)」とは何ですか?
あれは実におかしい話でした。2023年夏のことでした。私たちは川や島で活動していました。その時、暗がりの中、平原を横切る車を見たのです。彼らは誰にも何も言わずに待ち伏せをしました。車が近付いて来た時に、飛び出していき、銃を向け、「合言葉は?!」と聞きました。そう、検問所のようにです…。その後、彼らの指揮官から私のところに電話がありました。「お前のところの『ティフル(虎)』たちに、もうこんなことをするなと言っておけ。もうこんなことをさせるな。うちの者たちが仕事のために向かっていたら、原住民(編集注:兵士のこと)が出てきて、合言葉を尋ねてきたのだ」と言われました。「ティフル」たちは括弧付きの意味(比喩)ですが、その言葉が私たちの間に残ったのです。私は、今では複雑な戦闘任務を遂行した人たちのことを「ティフル(虎)」と呼んでいます。そして「ティフルたち」の中には、部隊の中の最高水準の虎である「ティフルの中のティフル(虎の中の虎)」な者もいます。
そういう瞬間の話をしている時、あなたは笑顔になりますね。もしかして、他にもそういう話がありますか?
これは本当は怖い話なのですが、ただし、良い結末を迎えた話です。クリンキを出発する際、水上にボートが待っていたのですが、その時砲撃がありました。私たちは10人でした。それぞれのボートに5人ずつ乗っていました。片方のボートに5人、もう一方のボートにも5人です。私が全員を数えたら、10人いたので出発しました。すると、私の副官が機関銃を持って岸辺へ駆け寄ってきて叫ぶのです。「俺のことを忘れてるぞ!」と。しかし、その時にはもう岸から15メートルも離れていたのです。私は操舵手に「引き返せ」と言いました。引き返すと、彼はボートに飛び乗り、ひっくり返ったまま、その乗り心地の悪い姿勢のままでドニプロ川の対岸までたどり着いたのです。その後、彼は「首が痛い」と言っていました。その時私は「お前が生きているじゃないか。それが一番大切さ」と答えました。その時、私たちの頭上には、まるで映画のような本当に美しい星空が広がっていました。私はボートに横たわり、空を見上げていました。でもその彼は、その空を見ていませんでした。だって、彼の頭は船底を向いていたのですから。彼はその空を覚えていないのです…。
イーホルさん、ヘルソン方面の戦いの特徴について話してもらえますか?
そうですね、コザーチ・ラーヘリ(編集注:ヘルソン州ドニプロ川左岸、クリンキから数キロ西に位置する自治体)のことはあまり知られていない作戦ですが、それはクリンキの予行演習のようなもので、甘くはありませんでした。入域するのはとても簡単でしたが、そこから出るのはとても大変でした。それから、島の話もあります。私たちの方の右岸は高くて、敵の方の左岸はなだらかです。そのため、敵の方には川へアクセスできるところがたくさんあるのに対して、私たちの方は坂のあるところだけで、坂の数は限られており、敵はその坂を知っていました。そのため、私たちの兵站は非常に複雑で、敵は持っているすべての武器を使って攻撃してきました。私たちの作戦はすべて漁のためのボートとオールで行いました。途中で敵が殺そうとしてくるのを知っていても、ひたすら進まなければならないんです。なぜなら、負傷者を避難させて、人員を交代させないといけないからです。負傷者が軽傷や中程度の場合は、現地で安定化措置を取ることができましたし、ボートで何とか逃げられる暗くなる時間帯まで待つことができました。しかし、重傷者がいる場合は、日中に搬送しなければならなかったのです…。
あなたの話は、地理面での困難さのことですね。しかし、全体的な話はどうですか? 官僚主義(からくる障害)や、時代遅れのアプローチはありますか? ウクライナ軍の中の何を変える必要があり、誰がそれを実現すべきだと思いますか?
良い話から始めましょう。軍は変わっています。軍の改革は必要で、まだやるべきことはたくさんありますが。私には幻想はないです。私は指導するポストで働いていましたから。そこでも、自分が選んだわけではない人たちと一緒に、変化を導入する仕事をしました。それは非常に難しいことでした。
例えば?
新しいものを作り出せる人たちがウクライナ軍に入りました。私たちは、イノベーションを導入することで敵に勝とうとしています。これに対して、敵は常に私たちの真似をし、その規模を拡大しようとしますし、敵の方が人が多いし、敵の方が火砲が多い…。しかし、私たちは、今のところその創造性で戦っています。誰も戦ったことのないやり方で、誰も予期せぬ方法で、です。しかも、私たちのところでは、それ(創造性)は上からではなく、下から生まれているのです。
例えば、無人航空機部隊に問題があったのですが、その問題は下から(ボトムアップで)解決されました。皆が、担当外の空中偵察を行って、担当外のFPV無人機操縦班になっていました。例えば、私の部隊には、まだ無人機担当者やFPV担当者は定められていません。しかし、担当外でそれを行っている者はいるのです。任務担当だと、私の部隊にいるのは、兵士、軍曹、衛生兵、運転手、それが私のチームです。そして、これが現在の戦争の実態に対応していないことを、私は理解しています。すると、ネットユーザーたちがこの問題について叫び始めます。そうするとようやく、無人航空機部隊の創設、というハイレベルでの動きが始まるのです。ただし、これら全てのことは、多分、1年近く遅れているのです。2022年にはもう、兵士たちはMavic(編集注:偵察用無人機)を使っていました。私は、中隊長として、空中偵察なしではやっていけません。このような事例はたくさんあります。
勝つためには、何より人材を守らなければならない
課題は上から降りてきます。アカデミーで学んだ偉大な指揮官もいますが、現在の戦争を理解するには、隊員とともに現場に出る必要があります。私の能力と手段を私以上に知っている者はいません。というのも、リストを見て、あなたのところに70人の兵員がいると考えるとしましょう。しかし、(実際には)その70人の中に(編集注:本当に戦える)戦士はそれほど多くはないのです、わかりますか? 勝つためには、何よりもまず人材を守らなければなりません。新しい人材や、より優れた人材も現れません。今いる兵員は、金塊よりも貴重なのです。
その点で、あなたが至った結論は何ですか?
「戦争は本では学べない」ということです。紙からは、憲章や文書登録は学べるかもしれませんが…。しかし、それで戦争を学ぶことはできない。なぜなら、戦争は毎日変わるからです。クリンキ作戦を計画した人々は、そこに歩兵を送り込みました。そこに機材を持ち込むことは非現実的でした。すると、その歩兵に対して、(敵の)航空機が誘導航空爆弾を投下し始めるのです。塹壕に座っているところに航空機が飛来してくると…、あなたも塹壕も消し飛ぶのです…。私は、ドニプロ川の河岸沿最大3キロメートルの幅で、深部800メートルの地点に対して、1日で記録的な数の誘導航空爆弾が投下された時にクリンキにいました。そこに1日で60弾以上の誘導航空爆弾が飛来してきたのです。歩兵は「気合いで」戦車を破壊することはできるかもしれませんし、歩兵は敵の塹壕を正面から襲撃することもできるかもしれません。しかし、誘導航空爆弾が30キロメートル離れたところから飛来する場合に、歩兵が航空機や誘導航空爆弾に何ができるでしょうか? (防空システム)「パトリオット」が私たちのところに寄せられた時は、2日間でたしか4機の航空機を撃墜しました。しかし、敵機との間に問題があることがわかった途端、次の日には同システムがそこからいなくなりました。1週間、1か月経ってもシステムはパトリオットは到着しませんでした…。私には大きな疑問があります。「守れないのに、どうしてそこに人を送るのだ? その決定がないことに対して、どうして誰も責任を取らないのだ?」
改革についてあなたが言いたかったことは、その件についてだけですか?
いいえ。私には、改革への提案がありますし、誰かがいつかそれを聞いてくれるかもしれません。1つ目。この戦争は、小規模グループ、機動班が非常に効果的であることを示しました。私は、将来は大隊の数を増やさないといけないと確信しています。ただし、おそらく、「旅団とは何か」という慣れ親しんだ理解から離れなければならないでしょう。なぜなら、旅団は、非常に大きな組織であり、非常に緩慢で、しばしば二重の任務を抱えているからです。なぜなら、旅団の中に独立大隊があると、仕事を重複させてしまう場合があるのです。それが1つ目です。
2つ目。大隊の隊長以上に、担当地域で何が起こっているかを把握している者はいない、ということです。それが自分の大隊の陣地を見て回れる「取締役」の活動限界です。彼は、ああ、あそこに榴弾砲があって、ここに迫撃砲があって、ここに歩兵がいるなと見られるわけです。つまり、大隊長は、その構造の中に入り込むことができる。しかし、大隊はもう少しよく装備を得なければならない。必ず専用の電子戦兵器が与えられなければなりません。私たちのところで起こる問題はこうです。電子戦兵器が必要で、上官に連絡するけれど、受け取ったその電子戦兵器は私たちには何の役にも立たないことが判明する。そして、私たちは人を失う…。私たちは、その構造を縮小して、もっと機動的にすべきで、他方で、現場の指揮官の責任を拡大すべきです。私が中隊隊長を担っている時、前線担当地域を託され、人員、人の命に関しても任されるのに、例えば、「対ガス防護品」に関しては、なぜかあまり託してもらえないというのは、おかしいと思っています。私たちは戦っており、戦争は高くつきます。人が死なないのなら良いです。生きてさえいれば、その人に新しいヘルメット、防弾衣、武器を与えることができ、その人はまた兵士となれます。しかし、そのアサルトライフルを与える人がもういなくなってしまったら、私たちは戦争に勝てないでしょう。それは、私にとってそれはおかしなことです。私の隊長としての、例えば失った資産に関する責任を上げて欲しい。もし誰かが私が何かを盗んだのを見かけたら、それに関する懲罰規範を法に記述すれば良い。私は、キャリアを積むために戦争に来たのではない。勝つために来たのです。
戦争では、変化がなければいけません。私には、全員を変えることができるという点に、疑いはありません。しかし、隊長が仕事をうまくできないなら、彼はその職から外されるべきです。ただし、その者が将校なら、将校には何かしなければならない。そういう者は、害を生み出しにくい職へ任命すれば良い。なぜなら、人(編集注:無能な将校)から肩章と将校証を剥奪するような仕組みはないからです。頭を使って働けないのなら、手を使って働き、スコップを渡すから、陣地へ行って、役に立つべきです。
あなたには、そのような提案をどこかへ伝える機会がありますか?
今のところはありません。私は自分の部隊のことに取り組んでおり、何より、部隊内で自分のアイデアを実現しています。私は、大隊隊長に恵まれました。彼は、若いマネージャーで、人の話を聞き、最前線まで行って自分の目で見て、人と対話する準備のある人物です。彼は、自分のところの最前線の状況をよく理解しています。そのあらゆる日誌や、書類の山は必要ないのです、わかりますか? 中隊隊長の仕事を確認するのは難しくないのです。その隊長が自分の部隊の訓練をしているか、戦術的救護や射撃の訓練をどのように組織しているか。私が、中隊へ行ってみて、兵士に近付いて、「左腕と右足を怪我した」と言えば、その人に止血帯が2つあるかどうかがすぐわかります。少なくとも2つはないといけない。3つ、4つあった方が良いです。1つの止血帯が袋の中に入れたままであれば、誰もその兵士に戦術的救護を教えたことがないということになります。そして、日誌は必要ない。そのように確認できるわけです。中隊隊長のところへ行って、車で私を自分の陣地へと連れて行け、と言えば良い。彼がどこへ行けば良いのか知らなければ、彼は自部隊の陣地を知らないということです。
あなたは、隊長として、どのように新兵を適応させていますか?
私は、新人を皆、第一に、経験のある兵士のところに付けます。第二に、穏やかな陣地を通じて、彼らを「駈り立て」ることにしています。訓練センターから来た人であれば、今が2022年でないこと、武器とは何か、何らかの戦術要素を理解しています。しかし、新人は、FPV無人機とMavicの音を区別できず、(弾を)搭載している無人機と(そうでない)軽い無人機の意味がわからない、つまりMavicが弾を搭載しているのか、そうでないかがわからないのです。「(味方陣地からの)砲撃」と「(敵陣地からの)飛来」の意味を知らなければ、砲弾が榴弾砲なのか迫撃砲なのかも知らないわけです。私たちは、新人を適合させ、穏やかな陣地に連れて行きます。そこで彼らは、他の陣地と同じようなことを少しだけ聞きます。一度陣地へ行ったら、次は経験のある兵士と一緒に向かいます。そうすると、その人は、次の陣地へ行くことができるようになります。
私のところに人が来たら、私は中隊の衛生兵に対して、戦術的救護を行うよう伝え、彼らが何を知っていて、何を知らないか、何ができ、できないか、彼らは救急セットに何を持っているかを報告するよう言います。彼は、それを行い、それはうまくいった、それもうまくいあった、それは訓練が必要だ、それは知っているが、これは知らなかった、これが足りなかったと報告します。そして、私は彼らに、わかった、次のレッスンはいつだ?と言います。そうして確認しています。働いていますよ。
戦争もまた、サッカーの試合と同じ、チームワークである。シナリオがあれば結果は良くなる。
クリンキについては、あなたは課題が遂行されたと思っていますか?
私は、今もまだ、全体の課題が何だったのかを理解していません。もしかしたら、敵戦力をその方面で食い止めることだったのかもしれません。もしかしたら、他の課題もあったのかもしれないが、それらは実現しませんでした。確実に言えることは、先ほど話した航空機の問題を含めて、作戦はもっと上手に遂行できたはずということです。さらに、主要な問題の1つは、重複する部隊が非常に多くあったということです。説明しましょう。私がクリンキに入った時、私にはある通りを防衛するという課題が与えられていました。私のところには、自分の中隊から9名の兵士がいて、彼らは私がクリンキで把握していた者たちです。他の者たちは、様々な旅団出身の複数部隊で、通信すらばらばらでした。その通りでコミュニケーションを取るために、私はメモ帳を持って、撃たれるかもしれないリスクを冒しながら、1つ1つの建物、1つ1つの地下に入っていったのです。近付きながら、私は「若者よ、友よ、ウクライナに栄光あれ、パリャヌィツャ…」と言いました…。すると、「お前は誰だ? どうしてこっちへ来る?」と言われます。私は、こういう者で、この地点のリーダーとして命じられたのだが、あなた方はどこの部隊所属で、そちらには何人の人がいるのだ?と話さねばならなかったのです。そうして何らかの情報を交換する。私のところにはこういうコードネームの者がいる、なるほどあなたのところにはこういうコードネームの者がいる、それをメモする、そして次の場所へ行く…。こういう感じでクリンキを歩いて回ったのです。もしそこに1個中隊が入っていて、通信が確立されていて、人々が互いに知っていたら、はるかに容易であったでしょう。戦争とは、サッカーの試合と同じようなチームワークであり、シナリオがある時に結果が良くなるのです。クリンキにはシナリオはなかったし、左岸にいた皆が、どこへ行くべきか、何をすべきかを現場で把握し始めて、現場で互いに連携を始めていたのです。
最も恐ろしいことは、私たちがこの戦争で今後生まれるはずの世代を失うこと
戦争とは喪失です。あなたにとって、どんな喪失が最も痛みを覚えさせるものですか?
昨日、私は葬式に行きました。仲間が死んだのです。私たちは最近は異なる部隊に仕えていましたが、しかし、2022年には、彼は私の小隊にいました。わかるでしょうか。この戦争の最大の喪失は、私たちが単に人を失うことではないのです。それも痛みを覚える喪失ですが、しかし、最も恐ろしいことは、私たちがこの戦争で今後生まれるはずの世代を失うこと、つまり、その亡くなる若者たちは、本当なら子供を育てるはずだった人たちなのです! しかし、彼らはそれを行えない…。
辛い思いを抱きながら、あなたは、楽曲を書き続けていますね。どのようにあなたはインスピレーションを見出しているのですか? それは、経験したことへの感想ですか? その「クリンキ」という歌をどのように書いたのか、教えてくれませんか?
とても強い感情を抱いていました。特に、そこから退却する時です。私たちのところには、地下室への入り口に壁があって、そこに青年たちが船や太陽を描いていた。そして、その太陽は、私たちがそこから撤退する最後の日の太陽だったのです。私は、120ミリ迫撃砲弾やFPV無人機の飛来する光のないところで、その曲を反応型照明カートリッジで書きました。私は、まるでクリンキにまた戻っているのように、自分の経験を共有したのです。他の曲は…。とても自発的なものです。メロディーは思い付けます。浮かんできたら、大抵は夜で(そして比較的落ち着いていたら)、大体それは周りに人がいない時で、誰も私を引っ張っていかない時、多くの時間を取られない時…。そういう時、感情の爆発が生じるのです。
最近あなたは、新しい「自由」という曲を出しましたね。どういう歌ですか?
任務遂行中に亡くなった、戦友のイェウヘンについて捧げた歌です。私は彼の世界観や、彼がどのようにして生きたか、どのように戦争、死、生に向き合っていたかを伝えようと思ったのです。
あなたには、将来の「音楽」関連の計画がありますか?
1年以上前に出すつもりだったけど、どうしても完成させられなかった歌があるんですが、それをもうすぐ出せたら良いなと思っています。フリスティーナ・パナシクと一緒に作った曲で、「ジム(家)」という名前です。発表したら、聞けますよ。
私たちは、あなたの曲とあなたの隊長としての成功を待っています。最後に、「電撃一問一答」で終わらせても良いですか?
ええ、どうぞ。
人生で最も難しかった選択は?
そういうのはないです。選択は選択です。正しい選択などもない。選択と結果があるだけです。
クリンキ撤退の前に何を考えていましたか?
怖かったです。とても怖かった。兵員のことを心配していました。私には、一緒にそこへ向かった人員全員がいて、皆生きていた。彼らを生きたまま家へ帰さないといけなかった。
神を信じていますか?
いいえ、信じていません。
あなたにとって、「平和」を連想させる音は?
静寂、多分、静寂ですね。そうしましょう。音ではなく、静寂です。
戦争におけるあなたの好きな食べ物は?
ガソリンスタンドのホットドッグとコーヒーです。
あなたの現在の任務を最も良く表す言葉は?
勝利です。
何を最も後悔していますか?
失った仲間のことです。長めに答えても良いですか。戦争によって私は非常に多くの素敵な人たちと知り合うことができました。戦争がなければ、知り合うことはなかったでしょうし、彼らのことを知ることは絶対になかった。そう。彼らのことを知らない方が、戦争がなかった方が、彼らが生きていた方が良かったのに。
あなたを最も鼓舞するものは何ですか?
普通の人の大きな活躍です。
もし戦場で得られる特殊能力があるならば、どんな能力が欲しいですか?
絶対に間違わない能力です。