キーウ市内、ステパン・バンデラの誕生日に合わせた行進実施
参加者は、約1000人。行進を組織した主な団体は、自由(スヴォボーダ)党と右派セクター党であり、タラス・シェウチェンコ公園のコブザール像から、フレシチャーティク通りに向けて行進した。ウクルインフォルムの記者が伝えた。
行進参加者は、火の灯ったたいまつやウクライナ国旗や赤と黒の民族旗、その他各所属組織の旗を掲げながら歩いた。
組織団体の他に参加が見られる団体は、ウクライナ・ナショナリスト会議やソキール(ハヤブサ)等が見られた。
行列の先頭には、女性参加者がステパン・バンデラの肖像画を掲げ、その後ろに太鼓隊が続く。
参加者達は、「ウクライナに栄光を!英雄たちに栄光を!」、「民族に栄光を!敵に死を!」、「ウクライナは至高だ!」、「ステパン・バンデラに栄光を」、「ウクライナの英雄に栄光を」と叫んだ。
行進の周りは、治安機関が囲っている。
自由党の指導者の一人である、ルスラン・コシュリンシキー氏(元最高会議副議長)は、「新年は、ステパン・バンデラの誕生日によって始まり、全てのウクライナ人が偉大なウクライナ人の110年目の誕生日を祝うのである。今回の行事は、ウクライナ全土で行われ、今年、赤と黒の旗を掲げることを決めた団体は218であった。そのため、ステパン・バンデラが伝えた思想は、現在でも最大限有効であり、私たちの課題は、それを最大限実現することであると言える」と指摘した。
行進参加者は、その後独立広場で集会を行い、組織代表達が演説をした後、ウクライナ国歌を歌った。
また、同日、別の場所では、国民軍団党と国民部隊が、別途、ステパン・バンデラ生誕110周年を祝う行進を行った。こちらの参加者は、ボフダン・フメリニツィキーどおりから独立広場方面へ向かった。
ステパン・バンデラとは、1941年6月30日に発表されたヤロスラウ・ステツィキーとともに、ウクライナ国家再生宣言を執筆した人物である。1941年、ナチス・ドイツは、バンデラに対し自宅拘禁処置を課し、その後、ザクセンハウゼン強制収容所に収監した。バンデラが解放されたのは、1944年9月であり、解放後、バンデラは反ソ連武力闘争の指導を提案されたが、バンデラはナチス・ドイツとの協力を拒否した。
1959年10月15日、バンデラは、ミュンヘンでソ連のKGBのエージェントにより殺害される。彼の墓はミュンヘンの墓地にある。
毎年1月1日には、民族主義組織がバンデラの誕生日を祝いたいまつ行進を行っている。